陶芸3.0



司馬遼太郎は、優れた陶芸家について「自己主張しないこと」と言っている。
陶芸は、あくまで「用の美」を表現するものということだろう。花を挿す、お茶を飲む、あるいは料理を盛る、こうした用途に対して、自己主張の激しい器は邪魔になる。

なんとも禅のような心持ちが必要になりそうだ。

“ 独断をいうようだが、陶芸家というものは自己主張が働くかぎり、いい作品はつくれない。その点、絵画や彫刻などの純粋芸術とは異なっている。焼きものに関するかぎり、時代の古い作品ほどいいといわれるのは、このことに連なっている。 
中国の古陶磁は、多くの無名の職人によって作られた。彼等は、一貫作業のほんの一部を荷なう。毛ほども作家意識のない宮廷奴れいにすぎなかった。彼等の作品が、今日の堂々たる作家たちの作品を、虫のように圧殺している。
陶芸は人が創るのではなく、火が作る。火の前に己れを否定して随喜してゆく精神のみが、すぐれた陶芸品を作るのだ。もともと陶芸は、人が自己否定することによってのみなりたちうる芸術である。火が陶磁を作る。人はただ随喜して火の世話をするにすぎない。人の我意が働けば働くだけ焼きあがった作品は小さく、火が縦横にふるまえばふるまうだけ、できあがった作品は自然のごとくおおきい。そこに花を挿そうが竹を置こうが、当然の機能のように調和するのである。

とはいえ、自己否定というのは、なんとも哀しい。若い陶芸家たちが、断崖の松にしがみつくように自己主張のできる純粋芸術へ自分の志を指向させているのはムリもないことだ。火の中に自己の生命を吸いとられてゆく。すぐれた陶芸家の誰もが、精気を吸いとられて遂にはほおけたような様子になる。清水坂にいる仙人のような老陶芸家たちを、若いひとびとは尊敬しつつも自分たちはああはなるまいとおもっている。 
しかし、彼等はまちがっている。窯の火は陶芸家の精魂を吸いとるが、出来あがった作品は単独に世に生きて、これを哀願する鑑賞者の精気を吸いとる。玩物喪志ということばがある。すぐれた陶磁というものは、作家だけでなく鑑賞者の魂をも食いとってしまう。他の芸術作品にない力を陶磁はもっている。これを自らの幸せと思わないかぎり、陶芸家になることを止したほうがいい。” 
『司馬遼太郎が考えたこと1「薔薇の人」』

1948年に京都で結成された陶芸グループ「走泥社」が、現代陶芸の表現を形づくって以降、芸術としての陶芸は、彫刻のようなオブジェとしての表現になっていった。

https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch007/

一方で、昔ながらの器としての陶芸は、現在も主流で、あくまで「用の美」として、脈々と続いている。オブジェではなく、こうした器としての範疇の中で、新しい表現を生み出していけないものだろうかと考える。

これまで経験と勘に頼っていた酒造りの世界では、テクノロジーの発展により、厳密な温度管理が可能となり、醸造プロセスが機械化されつつある。同じように陶芸の世界でも、いずれはテクノロジー化が進むかもしれない。

窯の温度のデータ化、釉薬の調合のデータ化。過去の優れた作品を機械学習させれば、優れた形状、色、風合いなどがデジタル化され、やがては人工知能によって、優れたデザインと焼成が可能になるかもしれない。

これまで経験と勘による職人が担っていた陶芸の作り手は、人工知能へと変化し、新たな表現が生まれる。そうなると、陶芸を芸術と呼べるのか。

とは言え、現代はメディアアートなるものが登場している時代。陶芸にテクノロジーを使って、新しい表現をしてもアートと呼んでいいはず。陶芸家は、やがてメディアアーティストとなる。

かつて、司馬遼太郎が考えた、禅の思想的な陶芸の世界は、やがてテクノロジーによって、新たな世界へと変貌を遂げるかもしれない。
なんとも、情緒のない世界ではあるけれど・・・

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