器の旅 〜伊万里〜
佐賀県伊万里市。「IMARI」と言えば、日本の焼き物の名前として海外にも知られた土地だ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で、この地を治める鍋島直茂が、朝鮮の陶工を連れ帰り、伊万里、有田一帯で磁器の生産を始めたのがきっかけで、伊万里は陶磁器の日本最大の輸出港となった。
伊万里駅から少し歩くと伊万里川が流れている。ここはかつて、伊万里津と呼ばれ、この川から小さな船に器を積んで、河口に出たあたりで大型の船に荷を乗せ替えて運ばれた。
川には、堆積物が多く、大型船は川まで入ってこれなかったらしい。川の両側には、かつては器を扱う卸商が軒を連ねたという。
江戸時代には、伊万里港から、長崎を経由して、ジャカルタを通って、アフリカ希望峰を周り、ヨーロッパへと器が輸出された。当時は、中国の政情が不安定だったことで、中国の磁器の代わりとして、日本の磁器が受け入れられた。
こうして「伊万里焼」の名前は海外で有名になっていく。
実際のところ、伊万里市では陶磁器の生産は行われていない。伊万里から十kmほど離れた有田で焼かれたものが、伊万里港に集められて出荷されたことで「伊万里焼」と呼ばれた。
当時の蔵造りの卸商の建物が1軒残っており、現在は資料館として公開されている。
藁で器を梱包し、小舟に乗せて川から出荷された。
当時の伊万里では、人口の9割が陶磁器に関わる商人だったという。
残念ながら、当時の蔵造りの建物のほとんどは、昭和の洪水によって浸水し、現在はほとんど街並みとしては残っていない。
蔵造りの建物の2階には、器を発注しにきた人が泊まれるようになっている。基本的には、受注生産であり、卸商は注文を受けてから、半年ぐらいしてようやく納品していたそうだ。
その間、商品ができあがるまで、依頼主はここで寝泊まりをするようになっていた。
伊万里焼の輸出は、18世紀以降、中国の政情が安定してくると、中国磁器の輸出が再開されたことや、ヨーロッパの窯業が発展してきたことで、やがて衰退していく。
その後、伊万里では国内への出荷は続き、昭和の初期までは商いが続いていたそうだ。
伊万里駅から15分ぐらいの圏内に、伊万里川、資料館など当時の街並みを少し感じられる。
現在は、ここからバスで10分ほどの大川内山に行くための場所として、街は機能している。
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